日本経済新聞 2007年(平成19年)9月5日(水曜日)

  文化欄 (記事)


目次へ戻る

アルプの精神つなぐ館
 
  ◇山を思った芸術家らしのぶ美術館、知床で運営◇

山崎 猛

 一九五八年に創刊、八三年に3百号で幕を下ろすまで、ひときわ存在感を放った文芸誌があった。哲学者、串田孫一が責任編集し、創文社が発刊した「アルプ」だ。「山の文芸誌」をうたいながら、コース案内も登山のハウツーもない。山を思索の場とする芸術家、文学者が、詩や随想を寄せた美しい雑誌だった。

  そのアルプが残した精神を引き継ごうと、私が北海道斜里町に「北のアルプ美術館」を建てて十五年になる。

  「ここよりもなお高い山へと進み、山から下って来たものが、荷を下ろして憩わずにはいられないこの豊饒(ほうじょう)な草原は、山が文学として、また芸術として、燃焼し結晶し歌となる場所でもある」

私の世界を変えた雑誌

 串田先生の言葉を記した創刊号を二十歳で手にしたとき、私の人生は変わった。中学卒業後、貧しかった家を出て、私は斜里の書店で住み込み店員をしていた。夏はリヤカー、冬は橇(そり)で朝六時から夜九時まで本を配達する生活の中、私は世界の見方をアルプに教わった。

 テントを揺さぶる風を「カンタータのリズム」とたとえた串田先生の文章を読み、どんな音楽だろうとレコードを聴く。「乳白色と生まれたばかりのスミレ色を混ぜたよう」と山肌を表す言葉を見れば、その色を探して美術書をひもといた。いつしか毎日仰ぐ斜里岳や周囲の自然を、アルプを通して見るようになった。

 それから二十五年後、アルプは終刊し、私は幸運にも起業家として成功していた。自然と芸術を通じ、人間性を高めるというアルプの精神を次の世代に伝えたい。編集長だった大洞正典氏、串田先生ら関係者に手紙を送り、美術館を建てるお許しを請うた。

 先生はすぐに「いいよ」と快諾されたが、本当は版画家、大谷一良氏が斜里まで足を運び、私が本気だと確かめるまで不安だったようだ。大洞氏は倉庫に残る生原稿をそっくり譲ってくれた。さらに「各作家にお願いしたら」と連絡先を教えてくださった。

 原稿、写真、原画、彫刻など元メンバーの方から寄贈された資料は五万点に上る。収集の傍ら、私はアルプのイメージに合う建設地を探し歩いた。建物は山荘風に設計し、敷地には自分の手で百本の白樺を植えた。準備から約十年を経て、九二年に美術館は開館した。入場料は無料。宣伝もしないのに、毎年、日本中から三千人が訪れる。

不思議な縁感じる

 私の人生が変わったように、アルプを中心に様々な人生がある。美術館での出会いを通じ、私はその不思議な縁に触れる体験をしてきた。開館間もないころ、五十台後半の婦人が一人でやってきた。ホテルに泊まり、三日間通っている。様子が気になって声をかけると、胸中を語り始めた。

 実は夫がアルプのファンだった。しかし平日は仕事、土日は登山と勝手気ままに自分の世界を楽しみ、妻や家庭を顧みない夫が許せず、婦人は山もアルプも否定して生きてきた。夫が突然の病で他界すると、せいせいした気持ちで三百冊のアルプをすべて売った。けれどもある日、この美術館の名を耳にして心に懸かるものがあった。

 ここに来て初めて、夫が愛した世界を知った。理解しなかったことへの罪悪感と、この人と結婚してよかったという気持ちが今、一度に押し寄せてきたという。「何十年かの償いをします。これを夫に見せて報告します」と、パンフレットを大切に抱いて婦人は帰っていった。「そんな人生もあるんだね」。私の話を聞いて串田先生はぽつりともらした。

師の書斎を復元へ

 先生自身はついに美術館に来る機会がなかったが、私は東京のご自宅へ折々ご報告に行った。開館十年目に、先生からいただいた言葉は宝物だ。「アルプの小さな種が北の斜里まで飛んでいって、山崎さんと家族の愛情と、知床の太陽と風と水に育まれて、大きな夢が開きましたね」

 二〇〇五年七月八日、先生は亡くなった。今、先生が使っていた書斎を美術館に復元する計画を進めている。ご遺族からぜひにというお申し出をいただいた。昨年、その意思を確認しに東京へうかがうと、先生の位牌の隣に、私が送った美術館の写真が飾られていた。

 「孫一がね、もう斜里に行っているいるでしょう」という奥様の言葉が、私の胸にぐっときた。「そうですか、先生来てくれているんですね」と答えながら、白樺の林間に先生の魂が浮かぶ様子を思い描いていた。

 蔵書や窓枠はトラックで昨年末に運び込んだ。仲間が集った先生宅の居間も一緒に再現する。完成は開館二十周年を迎える十二年の予定だ。

(やまざき・たけし=北のアルプ美術館館長)

<ページトップへ>

目次へ戻る