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山の文芸誌「アルプ」について
アルプのこと

池内 紀

 昭和33年(1958)3月、一つの雑誌が創刊された。並外れて美しく、並外れて高価な雑誌だった。終刊は昭和58年(1983)2月。まる25年にわたり300号を数えた。

 誌名は「アルプ」。その名前からもわかるように山の雑誌だった。少なくとも山の雑誌としてはじまった。発行所は創文社。創刊号は全68頁。定価80円。
 昭和33年当時の80円が、どれほどの価格であったか。そのころ、東京の日常の乗り物だった都電が13円。2年前にすったもんだの末、10円から13円に値上げされたばかりだった。

 300号を通して、装丁はほとんど変わらなかった。表紙は緑がかった水色。フランス語で、「ヴエール・ドー」とよばれる色だろう。漉きのスジが横にうっすらと入っている。そこに黒、あるいは濃いべージュで「アルプ」のタイトル文字。本文はクリームがかった高級紙。原色版の挿画が一点。ほかにモノクロ写真、多くのカットがついた。
 山の雑誌だが、山の案内はしない。コース紹介、技術や用具をめぐる実用記事といったものもまるでなし。広告は一切のせない。

 そんな雑誌が300号つづいた。わが国のジャーナリズムにあって、とびきり大胆で、きわめて珍しいケースだったのではあるまいか。ふつう雑誌は何であれ、にぎにぎしく騒ぎ立て、読者にウインクし、新味をちらつかせ、情報で脅しつける。そんななかで、ひとり「アルプ」は終始つましく、ひっそりとしていた。みずからの孤独を言いきかせるように、表紙の絵も沈んだ中間色におさえてあった。雑誌そのものがあまりにそれ自体で完成されていたので、すぺてが「アルプ」自身のなかに封じこめられ、思い返すとき、さながら白昼夢のような気がする人もいるのではなかろうか。

  「ちいさな桃源郷」幻戯書房・アルプのこと より
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