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心に蘇る緑

串田孫一

 北のアルプ美術館が開かれる。
その準備中に何回も詳しく報告を受けていたので、こうした美術館を作ることがどんなに困難で、次々と思い掛けない問題に突きあたるものかを具体的に教えられた。だが、山崎猛さんを中心にした方々の情熱は常にそれを大きく上回っていた。

その情熱は説明するまでもない。この美術館の雰囲気に触れられた瞬間に理解される筈である。詰りそれは、これまで瘻々山崎さんにお目に掛ってお話を伺い、また優れた多くの写真を見せて戴いて、先ず何よりも自然を大切にする気持が常に内面に漲っていることであった。

 60年以上前から山旅を中心にして日本の自然を見て来たが、人間が欲のために自然を傷附け、止め処なく痛め附けている痕跡が、目を覆いたくなる状態で残され、繰返し悲歎の溜息を漏した。
それを自然保護や反公害の運動に発展させることも大切であるが、25年間『アルプ』という雑誌の編輯を手伝いながら教えられたのは、これらの根源にある筈の人間の心の歪みに、銘々が気付くことである。

 山崎猛さんが長年に亘って『アルプ』を読んで下さり、その終刊の後にじっくりと考えてこうした美術館を計画されたのは、雑誌の編輯に携わっていた者達の喜びである。

そして北海道の斜里の、この美術館のあるところから、病める地球が見事に癒されて行く爽かな緑が、先ず人々の心に蘇り、ひろがって行くことを願っている。

美術館の一つのすがた

横浜美術館学芸部長
武田厚

 一口に美術館といっても、その規模、内容、運営の目的などによって全く千差万別の姿をしている。
世界中の観光客を集める美術館もあれば、山中にひっそりとあって、時折訪れる愛好者の為に明かりをつけるような美術館もある。
いずれも来館する客にとっては大切な美術館である。

 確かに美術館のあるべき姿というものを常日頃考える必要はある。特に国立や公立の場合がそうである。美術館が果たすべき役割とそれを利用する側の権利とのやりとりがしばしばそこで見受けられる。
私もかつてはその論議に参加した。そして今もそのことに関心がなくはない。しかしよく考えてみると、論議の必然性を呼ぶものは、いつもその美術館の運営を支える財政源の公共性に因ることが多かった。
これは美術館運営の本質論にはならない。美術館は、それが一般に公開されるや否や、その時点で既に公共性を有する存在となるのである。
公共性とは、つまらない平等主義のことを意味しない。“何の為に”とか“どのように”とかいった運営者側の明確な意図に沿って公開されたものに対して、関心をもった利用者は、その範囲において大いに活用することができるのである。
どんな小さな美術館でも、どんな特種な美術館でも、我々人類の培った遺産の何かを、先々の未来の子孫に向けて保存し、伝える使命を担っているものであり、そして、今の時代の我々に対して、それがどんなものであるのかを提示してくれるものである。この意義ある機能に関していえば、公立とか私立とかいった言葉はまったくどうということのない事項なのである。

 北のアルプ美術館は山崎さんがずうっと抱いていた夢の実現である。着々と準備を進めて今日に至ったのである。この美術館は自然の美しさを伝えようとする美術館である。それは館名にはっきりと謳われている。自然と人間の親和がそこに語れている。雄大で厳粛でかつ優美な自然を背景とした斜里の町にいかにも相応しい。一人の人間が果たそうとする何かが、この美術館とその周辺に淡々と表現されているように思う。

 かつてフォンテーヌブローの森を訪ねた時、そこの一隅にあるバルビゾンの画家たちのアトリエをいくつか見てまわったことがある。ミレーの家もドービニーの家も小さな美術館になっていた。彼らのロマンチックな自然との交流が、当時のままのような雰囲気で周辺に残っていたのを思い出す。
北のアルプ美術館も、四季折々の自然に囲まれて、いつまでも、訪れる人々の心を和ます古里のような美術館であることを心から願っている。

自然への
讃歌再び


大洞正典

 昭和33年3月、創文社から山の月刊誌『アルプ』が発刊された。
編集の主軸は当時東京外国語大学教授で山岳部長であった哲学者の串田孫一さんで、教え子の三宅修(編集)、大谷一良(表紙・カット)の両氏が創刊号から協力することになった。
「アルプ」とは、スイスの高山の雪線に近い豊かな牧草地の謂で、『アルプ』の誌名の名付親は串田さんの文学の師・尾崎喜八さんと云うことになっている。

 創刊号の「編集室から」の中で串田さんは「ここよりもなお高い山へと進み、山から下って来たものが、荷を下ろし憩わずにはいられないこの豊饒な草原は、山が文学として、また芸術として、燃焼し結晶し歌となる場所でもあると思う。(下線筆者)

従って高原逍遙のみに満足する趣味を悦んでいるものでもない」と宣言し、従来の山岳誌に欠けていた「山の芸術誌」としての『アルプ』の進路を示したのである。

 執筆者は、詩人の尾崎喜八をはじめ曽宮一念(洋画)、河田槙(随想)、畦地梅太郎(版画)、内田耕作(写真)、深田久弥(作家)、辻まこと(画文)、山口耀久(随想)、庄野英二(作家)、宇都宮貞子(山草)の諸氏のほか多士済々で、当時、山岳界で独立国の観を呈していた北海道でも坂本直行(画文)、更科源蔵(アイヌ文学)、一原有徳(版画)氏等々、随筆に、詩に、絵画に、写真に、と豊饒であった。

 しかし、やがて日本は高度成長の波に乗り、「文明」の名において自然破壊やリゾート化が急激に進むにしたがい、『アルプ』の志した自然讃歌の世界は次第に失われていった。そして遂に創刊から25年後の昭和58年2月、『アルプ』は一応の役割を果たし得たことを自認し、300号をもって終刊したのである。ちなみに『アルプ』に参加した執筆者は600余名であった。

 それから9年、思いがけない事が今、日本の北辺の地で実現しようとしている。
自然破壊を免れている数少ない土地、北海道の斜里町に、かつて『アルプ』の愛読者であった山崎猛氏が独力で、『アルプ』が創りあげて来た「山の芸術誌」の世界を『北のアルプ美術館』という形で再現し、訪れる人たちに山・自然への尊厳と愛を呼びかけようとしているのである。
『アルプ』の編集に関わってきた一人として慶びにたえない。

     
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